oono yuuki band

この1年、色々なことがあった。

祖父が亡くなって、仕事をやめて、引っ越して、また仕事が決まって、一人旅もした。

友達がつくっているフリーペーパー作りにも参加させてもらったりもした。

コロナ前あたりからずっと、どこにも行けないような閉塞感があって、どの道を選んでも行き止まり状態みたいな息苦しさを感じていたけど、仕事をやめたら、ぐるぐる回り続けているだけじゃなくて、とりあえずどこかには向かっているという感覚を得られるようになった。

自分が行きたい方向に向かっているのか不安だけど、とりあえず行ってみたら、そこが行きたい場所だったかわかるかなと思う。アントニオ猪木さんも「行けば分かるさ」と言っているし。

 

このまえ、大学生の時からずっと好きな「oono yuuki band」の11年ぶりの新しいアルバムが届いた。アートワークもとても素敵で、1曲1曲をイメージした?写真が入っている。部屋に飾りたいなあ。

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学生の時、友達が作ってくれたコンピレーションCDに、oono yuuki bandの「かんししゃメシエのまち」という曲がはいっていた。

「ビニールハウスの精霊が 焼け焦げた星を背負って バスの窓から 飛び降りるのが見えた」という歌詞にびっくりして、「Stars in Video Game」「Tempestas」という2枚のアルバムを買った。かんししゃメシエ座っていう今はない星座のこともこの曲ではじめて知った。海辺の小さい町に住んでいたので、「海からの風でなんでもすぐに錆びる町さ」という歌詞にも共感した。

大学生の時は、通学するときずーっとoono yuuki bandの曲を聴いてた気がする。「haruno」っていう曲は朝日の中の駅にぴったりだったし、「saginomiya counterpoint」は大学に向かう途中の川沿いのを歩くときにぴったりで毎日聴いていた。実家に住んでいた時は、「鷺ノ宮」ってどんな場所なのかなーと漠然とあこがれていて、大学生になって偶然に訪れたときはちょっとうれしかった。

oono yuuki bandが鳴らす音は、室内楽っぽくもあり、パンクっぽくもあり、センチメンタルではないんだけど、どこか日本の風とか土とか光も感じるし、でも聴いてるとどこか時空を超えた風景が見えるような瞬間があって、不思議な音楽だけど好きだなーって思う。

新しいアルバム「GREENISH BLUE,BLUISH GREEN」も聴いてたら、少し速足で散歩したくなる。旅に出たくなる音楽だって思う。遠くじゃなくても。

コロナになってからはライブも行けなかったけど、今度久しぶりに行けそうなので、嬉しい。

しあわせの比喩は難しい

5年ぶりくらいに会う後輩の女の子は髪の毛が伸びていた。

彼女は私が出会った人の中でとびぬけて比喩にオリジナリティがあっておもしろい。「原付で走りだす瞬間は、魔女の宅急便の冒頭で、キキがほうきに乗るときの感じと似てる」とか「同棲は終わらない免許合宿って感じ」とか。

彼女から教わったことの一つは、ここぞという時には一張羅を着ること。

今日も「××さんに会うからこの服を選んできたんですよ!」と言ってくれた。

自分のためにめかしこんでくれるってかなりうれしいし、それを言ってくれるのもうれしい。

 

彼女は比喩がうまいので、「しあわせ」にもイメージを持っている。

親が共働きだった彼女は、小学校から帰ってくると、毎日となりの家に住む同い年の男の子の家に行って、2階の部屋で、お菓子を食べながらゲーム(マリオカートとか)をやっていたそうだ。そのときに「明日も明後日も、永遠にこの時間が続けばいいなあ」って思っていたらしい。

そういう、「おわらない時間」のイメージが彼女にとっての「しあわせ」なのだそうだ。彼女にとって家族をつくることは、そんな時間をつくることなのだと言っていた。

 

よしもとばななの「デッドエンドの思い出」っていう小説にも、男女がお互いの「しあわせ」のイメージについて話し合うシーンがあった。主人公は、ドラえもんのび太が同じ空間でどら焼き食べたりマンガ読んだりしているところを挙げてて、男のほうは「どこにでも行けるけどどこに行かなくてもいい、自由な感じ」みたいなことを言ってた気がする。

 

じゃあ自分はどういう「感じ」をしあわせな感じと感じているか?と考えたがイメージが出てこなかった。「happy」なら色々浮かぶんだけど…「しあわせ」となると難しくないですか?

旅に出る必要がある

久しぶりに実家に帰ると、ホワイトボードのカレンダーが真っ白になっていた。少し前までは、祖母が、祖父の予定をホワイトボードに書き込んでいた。今は祖父が弱り、出かけることができなくなってしまったので、書く予定がないんだなあ、と思うと少しさみしい気持ちになる。

日が暮れると、祖父は、脳内でタイムトラベルしているようだ。私を、自分が若かった時の恩師だと思って「こちらが私の家内です」と祖母を紹介する。祖父がどんな人か、ずっと一緒にいてもよくわからなかったけれど、きっと、若いとき、自分によくしてくれた恩師が家を訪ねてきた、そのシーンが一番幸せな記憶だったのだなあと知った。

私がもし認知症になったら、いつのことを思い出すのかなあ。間違いなく言えることは、今みたいに、会社の小さい窓を眺めながらデスクワークをしているシーンじゃないことは確かだ。だから、旅をしなくちゃいかんな、と思う。職場で出会った80代の女性も「行けるときにいろんなところへ行った方がいいわよ。行ける機会があるならね。」と言っていた。いつかは動けなくなる。でも今は動けるから、旅に出る必要がある。

なんだか急に読みたくなって、実家の本棚から、河合隼雄の『物語を生きる』という本を引っ張り出した。これは、『竹取物語』とか『源氏物語』とか、王朝時代の物語を心理療法家の視点から分析した本なんだけど、その中で興味深かったのが「場所の重み」について描かれている箇所だった。

「物語において、特定の場所が大きい意味をもつことがある。それは、その場所自体が何らかの重要な特性をもっているようにさえ感じさせられる。」「特定の意味をもつ場所、トポスという考えは、近代になって個人を中心とする考えが強くなるにつれて、急激に薄れていった。個人の在り方、性格が大切であり、それがあちこちと場所を移動しようとも、中心的性格は変わらない、と考える。ある人物が、ある場所において、何かを感じるとしても、それは、あくまでその個人の感じることである、と考えられる。これに対して、トポスの考えを重視する者にとっては、その場所そのものが、なんらかの性質をもつと感じられる。『ゲニウス・ロキ genius loci』(『土地の精神』とでも言うべきか)の存在を信じるのである。」(「物語を生きる」 岩波現代文庫 139頁)

そういえば、10月15日にいった可児市の「GREEN and GOLD」ってフェスで崎山蒼志さんのライブを観たんだけど、「その土地の記憶っていうのがあると思う」ってお話をしていたな。土地じたいに力があるとしたら、何かを変えたいとき、もんもんと同じ場所にいるより移動することで解決することがあるのだと思う。

「ワンダーウォール」を観た

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岐阜CINEXいう映画館で、今日1日限定上映の「ワンダーウォール」という映画を見た。「ぎふ柳ヶ瀬夏まつり」というお祭りの一環で、脚本の渡辺あやさんと、主演の須藤蓮さんのトークショーが開催されていた。

数日前にネットでこの情報を見つけて、渡辺あやさんのファンだったのですぐにチケットを取ったのだった。

岐阜駅にちゃんと降りたのは初めてだったけど、程よい都会でレトロさと新しさが同居してて好きだなって思った。柳ヶ瀬商店街は良い風が吹いていた。

映画館に入ると主催の方からの説明のあと、上映が始まった。

「ワンダーウォール」は、取り壊しを迫られている京都の大学の寮を守りたい学生5人の姿が描かれている。1時間くらいの短い映画なんだけど、役者さんたちが素晴らしくて、画面に存在してるだけで一人ひとりの人柄や温度感がリアルに伝わってくる。トークショーでも渡辺さんご自身が「奇跡みたいなキャスト」とおっしゃっていたけど本当にそれくらいみんな生き生きしてた。脚本も素晴らしくて、始まり方もお洒落だし、クスッと笑えるところもよかった。

成海璃子さんも久しぶりに観たけど存在感が際立ってたし声が良くてグッときた。この映画の役者さんたちみんな声がいい。

主人公が寮の入り口を見つめるシーンがあるのだけど、ボロくて混沌としてるけど、ほっとさせ、ワクワクさせる、そんな明かりが映し出されていた。

大学生の時、50年以上の歴史がある古い校舎が取り壊されることが決まって、すごく寂しかった気持ちを思い出した。

ただ、自分たちが過ごした思い出があるから、ってだけじゃなくて、もっと前から、今までその校舎の中で過ごしてきた人たちの気配が古い校舎には満ちていて、それが学生たち包み込んでくれるようなホッとする空気感や、何かが起こりそうなワクワク感を生んでいたと分かっていたから、それが失われることがさみしかった。そういう「気配」は長い時間とたくさんの人たちの歴史がないと生まれないものだから。

いつもみんなを抱きしめてくれてたこの校舎を抱きしめたいなあ…と思ったけど建物は抱きしめられないから、夜、一人で校舎をウロウロ歩き回ってた気がする。

渡辺あやさんの脚本家の作品観ると、社会に適応するためにキレイに平された心から何かモヤモヤしたものが呼び覚まされる感じがする。20歳の頃のわたしは今ほど「なんの役に立つのか」「目的は何か」みたいに考えるクセがついてなくて、「これが好きだから無くなったら寂しい」って気持ちをちゃんと持ってた気がする。

恋しいものが失われるときのダメージを少しでも抑えるために、どうせ大きい力には敵わないんだから無駄な抵抗はせず効率よく生きよう、とか、干渉に浸ってるのはダサい、とか考えそうになるけど、「好きだからなくなったら寂しい」っていう気持ちは、ちゃんと持っていたいし、そういうものだけが自分を支えてくれるんだろうと思った。

 

大人になる

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仕事中、同い年の同僚に、「30歳になった時、30歳になっちゃったか〜って思いませんでした?」って聞いてみた。そしたら、彼女は「わたし、30歳になった日、めっちゃ嬉しかったです。子どもの時から30歳は大人って感じで憧れていたし、自分は20代より30代が似合うと思ってました。30歳になったら20代より自分の言葉に説得力が出ると思うから。」と言った。年取るのやだっていう価値観を無意識にコピーしてた自分が恥ずかしくなった。

翌日、小学校からの友人への出産祝いを買うために、名古屋のデパートへ出かけた。ネットで色々検索してたけど、贈り物は実物を見て買いたいなって思ったから。初めて入る「ファミリア」は、やわらかいピンクやイエローやくまやうさぎであふれていて桃源郷だ…と思う。店員さんに出産祝いを買いたいと伝えると、てきぱきと提案してくれる。置いてある商品はネットと同じなんだけど、やっぱりお店に来て、店員さんに話を聞くと、それぞれの商品の位置付けがはっきりした解像度でわかる。やっぱり街に出ないと何もわかんないなって思う。

色々迷った結果、くまの耳のついたバスタオルとスタイと卵ボーロを入れるおやつケースにした。包んでもらっている間、店内をぶらぶら見た。柔らかそうなガーゼの生地にリボンやフリルのついたキュートな服ごしにある窓ガラスから、雨の降る名古屋の街をぼんやり眺めていた。その瞬間、「あ、わたし、大人になったんだ」という感慨が急にきた。自分が稼いだお金で、大切な友人にくまちゃんのついた出産祝いを買って、それを包んでもらってる今、この瞬間のわたしは大人で、大人になってよかったなと実感した。こういう実感は生まれて初めてだったかもしれない。その時同時に、ずっと一緒にいた友達たちがお母さんになって、自分の居場所を作って、別の道を歩いていくんだなあ、というさみしさも感じていた。でも、そういう小さなハートの痛みといっしょに、プレゼントを包んでもらうのを待ってる時間は贅沢な「大人」の時間だと知った。

 

可愛い生き物

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会社の人たちとコストコ・パーティーをしようということになり、コストコに行って、山盛りのハイローラーとかミートローフとかティラミスを買った。

コストコはひとつが大きいから一人暮らしだとなかなか買う気にならない。以前行ったときは、みんなが冷凍ほうれん草やらチキンの缶詰やらサプリやら色々買っていたのに自分はもずくスープしか買いたいものが思いつかず悔しい思いをしたものだけど、大人数で分け合ったら楽しいんだなって分かった。小学生くらいのキッズが巨大な正方形のショートケーキを嬉しそうに持っていた。これは夢があるよねって思った。

先輩のお宅にお邪魔して色々食べた。ひとつひとつが重くてそんなに量を食べていないのにすぐお腹がいっぱいになってみんな動けなくなっていた。レトルトのエビのビスクスープがおいしかった。

そのお宅ではオカメインコを買っていて、食後にケージから出して一緒に遊んだ。オカメインコはケージから出ると頭の冠羽がぴっと立ってかっこいい。体を左右にゆするように歩いたり、頭の上にとまってきたり、ほっぺたを近づけてきたりする。鼻を近づけると晴れの日に干したお布団みたいな匂いがする。小さな足音とか、舌打ちの音とか、くちばしの音を聞いているだけで癒された。

インコが頭の上や肩に乗ってくるときの、足の感触と、ひっそりした重さがこそばゆい。最初は警戒していたみたいだけど、だんだんリラックスしてきたみたいで、わたしの肩の上で羽をふっくらさせてのんびりしていた。

「リラックスして落ち着いてるね」と言われてうれしかった。わたしの肩の上でリラックスしてくれてありがとう。偶然、二人(匹?)とも同じ瞬間に命があって生きていて、一緒の時間を共有できて、一緒にリラックスできてよかったな。

人間に対してもこういう気持ちになれたらいいと思う。

以前、スキューバダイビングをした友達が、「海にもぐってはじめて魚を可愛いと思った。水中の魚はみんな目が生きてて、自分の意志で行きたい場所にひゅって方向転換する。意思を持って行きたい場所に行く生き物はかわいい」と教えてくれた。オカメインコも床に降りたり、頭の上に乗ったり、自由に動いているから可愛くて、ずっと目で追ってしまう。

わたしも生き生きした可愛い生き物になるために、自分の意志で行きたい方向を決めようって思った。

 

ジッカ

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3ヶ月ごとに薬をもらっている病院へ行くため、実家に帰った。

祖父母の老いが進んでいるなぁと感じる。祖母はだんだん子どもみたいになっていて、陽気な感じなのだが、祖父は始終苛立っているように見える。自分の目が見えなくなってきたのは誰それのせいだ、などと支離滅裂なことを言う。自分以外の家族が喋っていると無視されていると感じるのか、ドアをバタンと閉めたり電気を唐突に消したりする。

もちろん認知症ということもあるだろうけど、怒りや不機嫌という形でしか自分の中の何かを人に伝えられないほど孤独なのかと思うととても悲しくなる。

河合隼雄の「家族関係を考える」という少し昔の本で、人は家族を、自分を中心とした心の円として捉えていて、嫁姑問題がしばしば起きるのは、嫁も姑も自分の円の中に夫(息子)を入れているけど夫の母(息子の妻)は入れていないから、というような記述があった。それぞれが、家族のメンバー全員を自分の円の中にしっかりと包んでいる状態が、理想的な状況なのだと思う。私の家には家族のメンバー全員が入ることのできる大きな円は存在していない。

昔は実家に帰ると呑気にダラダラしていたけど、最近は実家に帰ると色々なことを考えてしまってほとんど眠ることができない。ひとり暮らしの部屋に帰ると心底ほっとしてしまう。わたしはまだみんなを囲めるような円を持っていない。2日いて、トイレや風呂の排水溝を掃除したり、病院の帰りにたこ焼きを買ってくるくらいしかできなかった。「このたこ焼き屋さん覚えてる?」と祖母に聞くと「うん、なんか見覚えあると思った!懐かしい〜」と言っていた。

ほんとに覚えてる?と思ったけどこのたこ焼きは家族みんなが好きだ。